本が好きだ、ということをつらつらと書いたのが、昨日。1人の著者に耽溺する傾向がある自分を見つめなおしてみた。
 で、あたしが好きな場所が本屋である。
 椎名誠に言わせれば、十分活字中毒症(メグロ氏ほどではないにしろ)のあたしは、活字を見ていればシヤワセ、と思える人種で、それこそ読む本がなければ、新聞の折り込み広告まで隅々まで見てしまうようなばか者である。
 そんなあたしにとって、巨大な活字倉庫とも言うべき、本屋はこの上もない地上の楽園である。
 大阪人の他聞に漏れず、あたしも大概なイラチであって、ヒトを待たせることもヒトを待つことも大嫌いである。しかししかし、待ち合わせ場所が本屋であるなら、2時間くらいなら待ってもいいよ、というぐらいに、本屋が好きなのである。
 昨日も書いたけれど、子供の頃の近所に、夜通し開いている本屋があって、その店ではつけが利いた。もちろん無茶な買い方をすれば、親にひどい目に合わされるのは目に見えているから、しばしば立ち読みである。いわゆる街中の小さな本屋で立ち読みをするのである。
 それは立ち読みの域を超えていたかもしれない。本屋のおっちゃんやおばちゃんにとっては、まぁ結構なお得意さんでもあるし、しゃぁないなぁ、といったところだったのかもしれないが、さすがに手塚治虫のブッダを全巻立ち読みで済ませたというのはやりすぎだろう。(後に図書館で借りて読み直したけど。)まぁ、それを取り返すくらいには売り上げには貢献していたとは思うけど。
 じゃぁ、本屋に好みがあるのか、というとそうでもない。どんな本屋も好きなのである。子供の頃は、先述したとおりつけが利くこともあり、店頭にないものはその本屋で注文するということもしていたし、もう少し長じては、洋書がほしけりゃ北心斎橋の丸善に行く、ってなこともした。(あの丸善の閉店はあまりにも残念だった。)
 だから、おっちゃんがくわえタバコで苦虫を噛み潰してるような、街場の本屋で育った訳だが、大阪の中心部で育ったこともあり、心斎橋に行けばしんしんどう(漢字忘れた)があり、梅田まで出れば紀伊国屋も旭屋もあったので、いわゆる大型書店にも抵抗はない。
 さらに学生時代にヴィレッジヴァンガードを知ったけれど、ああいうコダワリというか、ちゃらけた感じの本屋でも楽しめるし、最近ますます元気なジュンク堂も好みである。かと言って、街場の本屋は卒業かというと、陳列を眺めているだけでも楽しいのである。
 宮脇俊三は、旅は計画している時が一番楽しいのである、と書いていたが、本を買うのも同じだ。
 大きかろうと小さかろうと、本屋に入り、陳列を眺め、新刊をチェックする。気になる題名や著者の本を取り上げ、ぱらぱらとめくる。この本はあたしの好みに合うのかどうか。これはかなりの真剣勝負である。(少し大げさ。)結果、あたりもあればはずれもあり、はずれの時には悔しいから全部読み通して、ケッ、とかほざくのである。
 本というのはこのようにして買うものだと思っていたが、アマゾンがやってきた。
 確かに便利である。一覧性では本屋は絶対に勝てないし、店頭にない本を注文するのと同じ感覚で注文すれば、自宅までほいほいと届けてくれる。
 でもね、なんか物足りない気がするのよねぇ。さっき書いた、勝負感というか、そういうものに欠けるし、下手をすると、ご丁寧な書評が添えられてたりして。
 やっぱり本は、本屋で手に取り、活字のにおいを感じながら選びたい、とアナクロなことも忘れてはいけないと思うのであった。