子供の頃から本が好きで、今思い返せば、あんな憎たらしいガキはいない、というようなリクツをこねるこどもだった。そんな頃から際立っていたのが、本を読むことについての収集癖というか、商業出版からすればこんなありがたい客はいないだろうけど、シリーズモノに弱いというか、とにかく、気に入った著者ができると、なりふり構わず読まずにはいられない、というところがある。
 そもそもの始まりは、ホントのこども(小学校)の頃。学研の「ひみつ」シリーズだった。ウチの母親は自身が手塚治虫の大ファンだったこともあり、マンガだからダメ、本を読みなさい、本を!といった理不尽なことをいわないヒトだったので、ひみつシリーズは山のように買ってもらっていた。
 それとあわせてはまっていたのが、同じく学研のマンガ偉人伝シリーズ。これで、エジソンやらコロンブスやら、色んなヒトの話を読み、そこから、小学校の図書館で偉人伝を読み漁るクライこどもだった。
 もう少し高学年になると、これまたマンガなのだが、小学館が出していたマンガ日本の歴史を毎月毎月買ってもらって読んでいた。(この頃から歴史がかなり好きだったようだ。)また、その頃にこれまたマンガで恐縮だが、手塚治虫ブラックジャックにはまり(かなり早熟!)、将来医者になるのだ、などとばかげたことをほざいていた。
 中学に上がる前。多分、学習塾の教材か何かで、後に分かった星新一のわたし殺し屋ですのよ、を読んだ。これはかなり震えましたよなぁ。ここから、星新一ショートショート集を文庫で買い漁る日々が始まる。(中学生の小遣いでは、少しずつ買うのにちょうどよい冊数であった。本を読む以外にも色々遊んでたし。)また、オトコノコなら誰でもはまる鉄道趣味に触れたことから、これまた狂ったように西村京太郎の文庫本もどんどん買い集めることになる。この2人の著作については40冊以上は持っていたはずだ。
 ここで現れるのが、宮脇俊三である。最長片道切符の旅、というタイトルを見て、毎号時刻表を買うというオバカな鉄道ファンであったあたしは当然のごとく、なるほど、とひとりごちて、書店のレジに持っていくと同時に、その枯れた、でもウィットに富んだ文体に打ちのめされた。そして、どんどんどんどん宮脇さんの本を買っていくのである。
 さらには、近現代史が好きなあたしは、後の母校の先輩となる司馬遼太郎にもはまる。ただ、こちらは物語性は面白いものの、あまりにも史観を押し付けてないかい、などとナマイキな高校生だったあたしにとって、全著作を揃えたろう、という気にはさせなかったようだ。でも、項羽と劉邦全3巻を、夕方、夜、夜中と3回に分けて1日で読破してしまうくらいにははまっていた。(そのころのウチの近所の本屋さんは昼前に店を開けて、夜通し営業していた。今もあるのかなぁ?)
 星新一についても、この頃から、ショートショートよりはエッセイ集を好むようになる。星にしても宮脇にしても、皮肉でドライな、乾いた文体があたしの琴線に触れたようだ。
 宮脇の著作で内田百間を語らずして鉄道文学を語るなかれ、などと言われ、ちくまの1冊全集、内田百間を購入し、第1阿房列車でこれまた衝撃を受ける。(よく衝撃を受けるのだ。)すでにイギリスかぶれの気味(The Beatlesの影響大)があったあたしのココロの声が、この作者は読むべきだ、読まねばならぬ、と告げ、一体どうやったら手に入るのかと思っていたところ、その頃、不振にあえいでいた福武文庫にやたらめったら百間が所収されているのを知る。(ただ、時すでに遅く、古本屋めぐりを余儀なくされるのだが。)こうして、百鬼園先生の福武所蔵の文庫はほぼ全部集めたはずだ。
 北摂の弱小国立大学に入ったあたしは、英語などを専攻し、主敵を叩くにはまず敵を知らねばならぬ、などとバカゲタ考えに取り付かれ、アメリカ史のゼミに入る。(後に追い出されたけど・・・。)で、1年の購読の授業後期で取り上げられたのが、J. D. Salingerのナイン・ストーリーズ(もちろん英語ですよ。)この中のTeddyに電撃ショックを感じた。(あと、バナナフィッシュには最高の日、もよかった。)これはいかん、サリンジャーを読まねばならぬ、と、ペーパーバックを読み漁る。(ライ麦畑は今でも愛読書。それと今ほどではなかったが円高万歳だった。)
 2年の購読はカズオ・イシグロ日の名残り(これももちろん英語で読んだ訳だけど。)こういうタンタンストーリーとイギリスの情景が目に浮かぶようで、カズオ・イシグロの著作も色々と買い集めたのである。(ちなみに、日の名残りを読んで、その夏初めての海外でイギリスに行ったときに、先輩に無理を言ってソールズベリーの尖塔を見に行った。工事中だったけど・・・。)
 先輩や高校時代からの友達とキャンプにはまったのがこの頃で、そうなると椎名誠を読まないわけにはいかない。その昔、中学の図書館でさらば国分寺書店のオババという書名に見覚えはあったけれど、最初は全然結びつかなかった。
 そんなあたしも、ヒトより長い学生生活を終えてシゴトに就く訳だが、組織の中で働いていると、どうしても組織論を歴史に求めたくなる。そんな時に答えを垣間見せてくれたのが、阿川弘之の海軍大将三部作。(山本五十六米内光政井上成美)そのあとも、阿川にはしばらくはまる。ついでに娘にもはまるが、それはかなり後の話。
 で、時はまた流れ、最近の話になるのだが、これといった作家がいないのよねぇ(あ、海堂尊は文庫になるのを待って買ってるけど)、などと言っていたら、江弘毅さんの著作を通じて内田樹先生を知る。
 内田センセ(とあえて書く)の文章は、あたし好みとしか言いようのない、とらえどころがないんだけど、スノビッシュな好奇心を刺激するものであるのだ。(センセがスノッブだと言ってる訳ではない。どちらかと言えば肉体派なのかもしれない。)
 それで、まずは日本辺境論(うわ〜、安全パイから攻めてる)、街場のアメリカ論と進み、どんどんどんどん内田センセの本ばっかり買っているジブンに気が付く。なのに、センセの本はまだまだ本屋にあるし、アマゾンが買え〜買え〜とおすすめしてくる。一体このヒトはどれだけの期間でどれだけの本を出してるねん、とツッコミを入れたくなるような状態で、今日もまた春日武彦(このヒトも実はお気に入り)との共著を買ってしまい、アマゾンに注文した「若マル」を待っているところなのである。